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A.F.M.活動報告

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ちょっとしたサプライズ

人をちょっとした事で驚かせて、喜ばせる・・そんな心憎い演出を楽しんでいるのが、サンクゼールレストランのスタッフの方々。プロポーズの場を演出したり、お客様に向けられたメッセージ入りのカードをティーカップの下にしのばせてみたり。。そんな演出って本当に嬉しいですね~

いつも話を聞いて感心しているばかりだったんです、素敵だな~って。なかなかそんな演出するレストランって聞いた事がないな~と。。

で、話は変わって昨日、長野サンクゼールのゴスペルワークショップがあり、久しぶりに大汗をかいて歌ってきまして、そしてそのまま一泊して次の日、サンクゼールの新しいレストラン「ビニュロン」という素敵な所でランチをしました。内装もゆったりとしてほんとにくつろげる素敵な場所です。そこのスタッフはクリスマスライブなどでも何度もお世話になっているので、すっかり顔見知りです。

そんなスタッフが、ランチの最後に出てくるデザートで、心憎いサプライズをプレゼントしてくれたんですよ~・・・まさか、私にもサプライズを用意して下さるなんて、全然予想してなかった・・・

stcousair_cake.jpg

う~ん、泣けてくる・・・
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  1. 2007/03/16(金) 11:29:04|
  2. testimony
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プリムの祭り~奇跡の大逆転~ その3

<プリムの祭りを通してわかるのが、いつも神が勝利を与えて下さる、という事です。実際に歴史を振り返っても明白です。その歴史を振り返ります。>
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『神が必ず勝利をもたらす』

●イスラエル民族に危機をもたらした人々
<2>の中でも触れましたが、イスラエル民族を抹殺しようとした人はたくさん出てきました。しかし必ずしっぺ返しを食らっています。まずは聖書の中を見てみると・・・

●旧約聖書時代
・エジプトのパロ/生まれた男子を全て殺すよう命じた(出エジプト1:16)
→パロ本人が、大水に飲まれて死んでしまう(同14:23~28)
・アマレク人/イスラエルに挑んだ、初めての民族(出エジプト17:8)
→神が「聖絶せよ」と命じ、サウル王やダビデ王によって滅ぼされた(第一サムエル記など)
・アッシリア、バビロン/イスラエルを支配した(第二列王記15章、25章など)
→今、正式な形式では存在しない
・シリア/イスラエルを支配し、ユダヤ文化をなくすためギリシャ文化を持ってきた
→マカビー族が大勝利をおさめた。(紀元前167年)
旧約時代に言えることは、イスラエルそのものを滅ぼすために、挑まれてきたことがわかります。それはイエスが生まれるために必要だ、という事を敵がわかっていたからです。

●新約時代
・ヘロデ王/2歳以下の男の子を殺すよう命令(マタイ2:16)
→ヘロデ王自身で妻や子どもも殺し、最後は恐れに取りつかれ、あわれに自殺
・ローマ帝国/ユダヤの反乱によりエルサレムを陥落、ユダヤ民族が離散(紀元70年)
→ユダヤ人離散により、福音が全世界に伝わった
神の贖いの業、人類の救いをもたらすキリストの十字架を、悪は結局阻止することができませんでした。幼いキリストを殺そうとしても、十字架ではない方法で殺そうとしても、また過越しの祭り以外の日に刑を執行しようとしても、それは全て失敗に終わったのです。

●十字架後~現在
・十字軍/=間違った考えにより、クリスチャンの手によって迫害されました。
・宗教裁判/上記に同じです。
・ポグロム/スターリンの独裁によるユダヤ人大虐殺
→スターリンはプリムの日に死んだそうです。
・ホロコースト
→ポグロムもホロコーストも、ユダヤ人を絶滅させようとしました、が、それが逆にイスラエル国家の建国につながりました。
・独立戦争
・湾岸戦争
→終結したのは、やはりプリムの日だったそうです。
・報道戦争や、再び広がっている反ユダヤ主義
→ユダヤ人撲滅にも失敗し、国家までできあがったので、今度はイスラエルを孤立させようという働きが広がっています。これは現在進行中。
このように、最後には必ずイスラエルの民が、言い換えれば神が勝利しているのです。このように歴史が証明しています。

●未来
そして、最後の大きな戦いが未来に怒ることがゼカリヤ書に預言されています。この戦いは一般に「ハルマゲドンの戦い」(黙示録16:16)と呼ばれます。

見よ、わたしはエルサレムを、
その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。
ユダについてもそうなる。
エルサレムの包囲される時に。
その日、わたしはエルサレムを、
すべての国々の民にとって重い石とする。
すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。
地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。
(ゼカリヤ書12:2~3)

今現在でも、イスラエルに加担している立場は、風当たりが強いです、聖書ですでに、「すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける」と書いてある通りですね。今現在の世界の情勢を見ても、圧倒的にイスラエルとは反対側に味方している方が多いのではないでしょうか。

というように、現在も過去も未来も、イスラエルの民はずっと戦う使命があるようです。それはただ「この世に属さないから」という一言に尽きます。

●悪しき力の策略
過去、現在、未来と見てみましたが、その策略をまとめると、
・イスラエルの存在を妨害
・イスラエルが救われないように
・イスラエルと異邦人クリスチャンが互いに敵意を持つようにする
という流れであることがわかります。なぜでしょうか?

ハルマゲドンの戦いの時には、イスラエルと異邦人クリスチャンが一緒にイエスに助けを求めないと、キリストの再臨はないからです。一つとなって、イエスを迎える、という「一つ」ということが、最後のカギなのです。

神は・・・みこころの奥義を
私たちに知らせてくださいました。
それは・・・時がついに満ちて、
この時のためのみこころが実行に移され、
天にあるものも、地にあるものも、
いっさいのものが、キリストにあって
一つに集められることなのです。
(エペソ1:8~10)

●私たちにも当てはまります
現在の教会、またはイスラエルと異邦人クリスチャンのあいだでも、悪の策略は働いてきます。
1.分裂させようとする
2.人が救われないようにする
3.イスラエルという国を、クリスチャンがきらうようにする
教会内で分裂することは、今どき珍しいことではありません、また、ありとあらゆる方法でクリスチャンになることへの道を阻もうと、敵はやっきになっています。さらには、クリスチャンの中でイスラエルに対する理解が正しくない、聖書が語る真理とはかけ離れた理解(置換神学など)が横行しています。

しかし歴史は確実に神の手によって運ばれています。ユダヤ人がどんどんイエスをメシアであると受け入れている時代が来ているのです。

最初の話に戻りますが、神はいつもギリギリの所まで待って、最後には大逆転の勝利をもたらすお方です、神の計画は時代を超えても必ず成就します。プリムの祭りを通して、神が必ず最後には勝つ!、聖書の御言葉どおりになる、という信仰を堅く持ち続けて、今の時代を堂々と歩みたいものですね!
イズレエル平野

イスラエルのイズレエル平野。最後の戦い、ハルマゲドンの戦いの舞台となる(と、預言されている)場所です。いつも神の勝利が約束されています。
  1. 2007/03/03(土) 11:20:42|
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プリムの祭り~奇跡の大逆転~ その2

<1>で、ひとまずユダヤ民族=選民である、という事柄を頭に置いて、そして本題である"プリムの祭り"に移りましょう。これは旧約聖書「エステル記」に由来する祭りです。
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『プリムの祭り』

この日、子供たちは仮装するそうです、そしてこの祭りのベースであるエステル記を朗読して、「ハマン」という言葉が出ると、みんなで足を踏みならして音を立てる、というおもしろい習慣があります。そして、この祭りに無くてはならないのが「ハマンの耳」というお菓子です。

●エステル記 その時代背景
今から2500年ほど前に実際にあった話です。(と言っても、聖書は全て事実が書かれてある歴史書なので、当然ですが)紀元前586年、ユダヤの民がバビロン国に滅ぼされ、ほとんどの人が捕囚として連れ去られます。その後バビロンはペルシャ(インドからエチオピアに及ぶ広大な127州を治めた)に滅ぼされ、ユダヤの捕囚の民は帰還されますが、多くの人はその地に残っていました。その民に起こったストーリーです。
***
時の王、ペルシャのアハシュエロス王に気に入られ、王妃として選ばれたのが、王宮の門番をしていたモルデカイ(ユダヤ人)のいとこにあたるエステルでした。(エステル記1:9~22)そんなある日、モルデカイは城門の警備についている二人の宦官が王の暗殺計画を練っているのを知り、王妃エステルを通して王に通報しました。その結果、宦官の二人は磔にされ、この知らせをもたらしたモルデカイの事が、王の年代記に詳細に記されました。(同2:21~23)

王はその後まもなく、ハマンを総理大臣に抜擢しました。みな彼にお辞儀をする事が命ぜられますが、モルデカイだけは絶対に頭を下げようとはしません(ユダヤ教では神以外のものを崇めることを堅く禁じているため)、この態度に怒りを燃やしたハマンは、モルデカイのみならず、国中のユダヤ人を皆殺しにしようと考えました。ハマンは王に「すべての州にいる諸民族の間に、王の法令を守っていない民族(=ユダヤ人)がいる」と告げ、彼らを滅ぼさないと王のためにならない、と進言し、王はいっさいの権利をハマンに委ねました。(エステル記3:7~)ユダヤ人虐殺の計画が王によって承認されてしまったのです。

これを知ったモルデカイはエステルを通して、なんとかその計画を思いとどまるように王に伝えるよう勧めます、しかし王からの召しがなくては、王妃と言えども王宮の中庭に入るだけで即刻打ち首となってしまいます、命がけです、すぐには承諾できません、そんなエステルにモルデカイは伝えました。

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、
この時のためであるかもしれない。」
(エステル4:14)

エステルは熟慮した末、同胞のために死ぬ必要があるのなら、と覚悟を決め、いさぎよく王宮の中へ入りました、ところが王は怒るどころか彼女を招き入れたのです。エステルは王に「何がほしいのか」と聞かれると「私が設ける宴会に、ハマンと一緒に来て下さい。」と答え、王は快く承諾します。その夜、王は不思議と眠れなかったので、使いの者に年代記を読ませました、そこでモルデカイが王の暗殺計画を報告した、という事が見つかったのです、王はモルデカイに栄誉を与えたいと思いました。

その後、宴会に出かけた王は上機嫌でエステルに「欲しいものは何でも与えよう」と言います、エステルはそれに答えて「私にいのちを与え、私の民族にも命を与えて下さい。私も私の民族も滅ぼされることになっているのです。」(同7:3~4)と伝えると、王は激怒し「たくらんでいる者は誰か?」の問いに、エステルは「この悪いハマンです」と答えました。結局ハマンは、自分でモルデカイを吊るそうとして作った絞首台に、自分が吊るされることとなりました。そして王は、ハマンの財産を全てエステルに与え、モルデカイを総理大臣に任命しました。それはアダルの月、14日でした。災いが去ったことで、国中のユダヤ人たちは喜び、祝宴を張り、その日を祝日としました。
***
・・・と、短く、かいつまんでエステル記をまとめましたが、実際もとても短く、わかりやすい内容なので、聖書を持っている方はぜひ一読してみて下さい。おもしろいです。


●歴史に根を張る、反ユダヤ主義
プリムについて、注意を払うべき最初の課題は、「ユダヤ人を見る偏見の目」です。ユダヤ人を滅ぼそうとした人は、エジプトのパロ、ハマン、ヘロデ、そしてヒットラーなど、聖書の時代から今まで数えきれない程歴史に登場してきています。ユダヤ人がこうも嫌われる理由は、<1>のユダヤ民族の項でも触れたように、神によって選ばれ、神と契約を結んだ民だからです。その目的は人類を救う、という壮大な目的です。イエス・キリストを地上に送り、ユダヤ人として生まれたイエスを十字架の死にまで追いやられたのは、神の救いの計画ですから、ユダヤ人の撲滅を謀ることは、神の救済の道を断ち切ることにつながるのです。

●ユダヤ人をあなどると、必ずしっぺ返しを食らう
大昔から、悪の勢力はあの手この手と手段を変え、ユダヤ人を襲ってきました。エジプトのパロに始まり、アマレク人、ハマン、シリア、ローマ、十字軍戦士、宗教裁判(13世紀から19世紀のヨーロッパにおいて、異教:キリスト教意外 の発見と異端者の処罰を行った)、ポグロム(ロシアによるユダヤ人大量虐殺)、ヒトラーによるホロコースト、etc. そして現代、中東のイスラム勢力が聖戦を唱えて、絶え間なく攻撃を仕掛けてきています。

にもかかわらず、ユダヤ人は守られ、今も生存しています。また加害者たちは、結果的に歴史から消えて行きました。聖書にこのような言葉があり、まさにこの言葉が成就しているのですね。

「しかし、あなた(=ユダヤ)を食う者はみな、
かえって食われ、
あなたの敵はみな、とりことなって行き、
あなたから略奪した者は、略奪され、
あなたをかすめ奪った者は、
わたしがみな獲物として与える。
わたしがあなたの傷を治し、
あなたの打ち傷をいやすからだ。」
(エレミヤ30:16~17)

エステル記を見てもわかるように、イスラエルの勝利は、いつもギリギリの所で来ます。大逆転の勝利と言えるでしょう。また、神の計画は、時代を超えても必ず成就します!

<3>では、歴史を振り返り、神がどのようにイスラエルの民を守ってきたかを見てみます。
  1. 2007/03/03(土) 11:11:02|
  2. Bible Study
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プリムの祭り~奇跡の大逆転~ その1

わたしは、わたしの勝利を近づける。
それは遠くはない。
わたしの救いは遅れることがない。
わたしはシオンに救いを与え、
イスラエルにわたしの光栄を与える。
(イザヤ46:13)
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<旧約聖書にあります、エステル記という書物の中に、今から2500年ほど前に実際にあった話が綴られています。イスラエル民族にとって奇跡的な大勝利をもたらしたそのストーリーは、今でもユダヤの「プリムの祭り」(毎年3月がプリムの季節です)で祝われているそうです。B.F.P.ジャパンの東京ハイナイトの中で、石堂ゆみ講師によって語られたメッセージをまとめました。>
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『ユダヤ民族=選民について』

まずエステル記に入る前に、ユダヤ(イスラエル)民族に関する説明がなされました。聖書には

エルサレムの平和のために祈れ。
「おまえを愛する人々が栄えるように。」
(詩篇122:6)

という言葉もあるように、神が祈れ、と命じられています。これはエルサレムのため、またイスラエル民族のために祈れ、とも言うことができます。なぜ祈れ、と言われるのでしょうか? ここから、人類の最初にまでさかのぼって、その意味を考えます。

●セムの神
創世記6章あたりから出てくるのが、有名な「ノアの箱船」の話です。その頃、地上にはあまりにも人の悪がはびこったので、神はこの地を一掃することを決めました、しかしその中でも
「ノアは、正しい人であって...神と共に歩んだ」
(創世記6:9)
ので、ノアとその家族、また全ての種類の動物一つがいずつだけノアの作った大きな箱船に残り、後は全て40日降り続けた雨による洪水で滅ぼされました。

余談ですが、この大洪水の後、神はもう人を滅ぼす大洪水を決して起こさない、と契約なさいました。そのしるしとして虹をお立てになった(創世記9:11~16)とあります、これは永遠の契約だ、とも書いてありますから、私たちはこういった大洪水に会うことはまずありません。良かった~!虹を見るたびに神さまが立てた契約を見ることができるんですね。

ということで、人類はノアの子孫から始まった、と言えるわけです。ノアの子どもはセム、ハム、ヤペテという3人の兄弟でした。その中で、セムが神によって選ばれていたようです。聖書には

「ほめたたえよ。セムの神、主を。...」(創世記9:26)
となっています。その後をずっとたどって行くと、セムはアブラハムにつながり、アブラハム→イサク→ヤコブ=イスラエル民族となって行くわけですね。ですからもうすでに、人類の始まりから、イスラエル民族は神に選ばれていた、という事になります。

●イスラエルの民族=神の宝
時代は移り変わり、出エジプト記に入ります。エジプトで奴隷となっていたイスラエル民族を脱出させるために、神がモーセを立て、有名な10の災いを起こして、とうとう民族の大移動が始まりました。脱出を果たした後も、いろいろな問題が起こりますが、神さまの目にイスラエルの民は選びの民であることは決して揺るぎませんでした。出エジプト記の中に、このような言葉があります。
「今、もしあなたがたが、
まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るなら、
あなたがたはすべての国々の民の中にあって、
わたしの宝となる。
全世界はわたしのものであるから。
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、
聖なる国民となる。」(出エジプト19:5~6)

イスラエル民族を、神は「わたしの宝」と言っておられます。ノアからセムと選ばれ、その子孫として生まれたアブラハムに、神はすでに、一方的に契約を交わしておられます。有名なのがアブラハム契約、と一般的に呼ばれるもので、

「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
(創世記12:3)

という内容です。実は「全ての民族が神の祝福を受けるため」に選ばれたのがアブラハムで、その契約を受け継いでいるのがイスラエル民族であり、彼らの役割なのです。アブラハム(=イスラエル民族)を祝福するものを神は祝福して下さる、この原則をぜひ覚えていただきたいと思います。ちなみにイエスを信じた人=クリスチャンも霊においてはアブラハムの子孫となります。ぜひイスラエルを祝福して行きましょう!当然私たちにも祝福が返ってきます!

●イスラエル=聖なる民
=良い行いをする正しい人たち・・・?

ところで、聖書の時代も今の時代も、彼らユダヤ人を見て、どこにも非の打ち所のない、良い行いをする聖なる民族である、とは誰も思えないと思います。(実際、講師の石堂先生も、何ど彼らに思わずムカッと来たか・・と話されていました、根はやさしいんですが)彼らも私たちと同じように間違いを起こしますし、頑固だったりします、そんな彼らが聖なる民なのでしょうか。

ここで「契約」という言葉の意味を考えてみましょう。私たち日本人が普通に使っている契約というと「義理」のような感じ?と思っていないでしょうか。義理というのは物事の正しい道筋、もしくは交際上やむ終えずしなければならないこと(辞書で調べると)だそうですが、相手や状況によっては簡単に「義理を欠く」ことができます。しかし契約は、この義理を上回ります、相手が良い悪いに関わらず、その契約は遂行されなければなりません。契約に変更は許されないんですね。ましてや神が結んだ契約となったら、永遠に変わることがありません、あり得ないことです。

ですから神が結ばれた契約=イスラエル民族によって全人類が祝福される、イスラエルは祭司の王国であり神の宝である、とは、イスラエルが良い悪いに関わらず、永遠に変わらないのです。イスラエルが聖であるから、という理由ではなく、神の選びであり契約だから、と私たちは捉えるべきなんですね。

●この世に属するのか、神に属するのか、の違い
神と人との間に、大きな大きな差があることは、誰でもわかることだと思いますが、聖書では私たちの住んでいる「この世」について、明確に説明されています。

「戦う相手は、血や肉を持った人間ではなく、
肉体のない者たちです。
すなわち目に見えない世界の支配者たち、
強大な悪魔的存在、
この世を支配する暗やみの大王たち、
それに霊界にいる無数の悪霊どもです。」
(エペソ人への手紙6:12 リビング・バイブル訳)

と書かれてある通り、この世界は残念ながら暗やみの支配者(神に敵対する存在)たちによって支配されています。反対にイスラエルが神に属する民族であるならば、神に敵対する暗やみの支配であるこの世のただ中あって攻撃されるのは、仕方がない、当然といえば当然の事なのです。これも同じように、彼らが聖だからではなく、神に選ばれているから、です。

ですから、聖書の時代も今の時代も、イスラエルは常に攻撃されてきた民族です。それは歴史を見ても明確です。その理由は、実はここにあったんですね。さらに、イスラエルが攻撃を受ける最大の理由は、彼らによって全人類が祝福を受けることを、なんとか阻止しようとしている、やはり暗やみの支配者の策略なのです。が!しかし、歴史を振り返っても、神が必ずギリギリのところで大勝利をしていることがわかります。それについても、また後ほど、詳しく触れて行きます。

神に選ばれている、がゆえに攻撃される、なんとも重たい役割を背負ったイスラエル、ですから私たちは彼らのために祈る必要があるんですね。

それでは、次項で、本題のエステル記に入って行きます。
  1. 2007/03/03(土) 11:09:13|
  2. Bible Study
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「NOEL」=キリストの降誕

きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
(ルカ2章11節)
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<毎年行われるMIYAJI GOSPEL LIVE、その中で聖書朗読とそれにちなんだメッセージをしています。2004年度用に用意した内容を公開します。(本番ではこれの半分ぐらいしか話してないと思います・・・)>

●NOELという言葉の意味
"NOEL"(ノエル)とは、キリストの降誕という意味があります。この1語で「キリストがお生まれになった!」と言っているわけです。先程の*メドレーでは、最初の"O come, O come Emmanuel" という歌から始まりました、この歌の中ではEmmanuel(=神は私たちとともにおられる:マタイ1:23)の神よ、私たちの所に来て、今救って下さい、と歌ってました、そして最後には「♪Born is the King of Israel! Noel, Noel, King of Israel! : とうとうお生まれになった、待望の救い主キリストがお生まれになった、イスラエルの王が!」とつながっているんです。

*メドレーとは、Chirstmas Medley のことで、私の方で勝手に、O come, O come Emmanuel, まぶねの中に、In Excelsis Deo~Gloria、King of Israel をつなげてメドレーにしたものです。 コンサートで歌ったあとに聖書朗読をしました。

●なぜキリストがこの世に来られたのか
さて、神であった御子が人の姿となって、私たちと同じように赤ちゃんとしてお生まれになったキリストですが、何のために私たちの中に来て下さったのでしょうか。聖書の中に、キリストご自身のこのような言葉があります。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。
また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
(ヨハネ 10:9~10)

ここでイエスは、ご自分を牧者、羊を私たちに例えて話しておられます。今でもイスラエルに行くと所々に羊を休ませる、ちょっとした洞穴のような場所があります、羊飼いは夜になるとこの穴の中に羊を入れ、狼などに襲われないようにかくまい、自分はその穴の入り口の所に横たわって寝るのだそうです。ですから「わたしは門です」と言った時、当時の人はその光景をありありと思い浮かべることができました。この例えを用いて人々に、「わたし」=イエスを通って入るなら救われる、とおっしゃいました。

さらに、いっさいの不安や恐れを持つことなく安らかに出入りする、また牧草を見つけ、食べ物にも困らない、必要が全て満たされる世界に入ることができる、とおっしゃいました。また「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」とも言っています。いのちとは永遠のいのちを言います、永遠に安らかな、神とともにあるいのちを得ることができて、さらにそれを豊かにするためだ、とおっしゃいました。今、この世に生きている間にも、神はみなさんを神の子どもとして豊かに祝福したい、そう願ってイエスは来て下さったのです。

さらに別の箇所を読んでみましょう。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ 15:16)

この箇所を読んで、私もどれだけ励まされたかわかりません、ここには神が私たちを選んだ、とはっきりと書かれてあります。同じような事が他の箇所でも、くりかえし言われています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

このように私たちが何をしたから、ではなく、神が私たちを愛し、選んだというのが、一貫した聖書のメッセージです。神がわたしたちを選び、この福音を聴き、神と共に歩む人生へ招き、そこで豊かに、大きく実を結ぶ人生、また求めたものは何でも与えられる人生へと導きたい、と神が願っておられるのです。キリストがお生まれになったのは、このような大きな祝福を私たちが受け取るためです、この大きな素晴らしいクリスマスプレゼントを、今受け取って下さり、どうか豊かな人生、実を結ぶ人生、そして永遠の命にいたる人生を送って下さいますように、と願います。

●祝福への人生を歩むには?
方法は簡単です。聖書は
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中から
よみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ 10:9~10)
と書いてあります。イエスを信じ、その口でそのまま「信じます」と告白するだけです。これはあくまでも神と個人との関係の話であって、いろいろな環境やしがらみは関係ありません、また、うちは仏教だから、とか、洗礼は?とか、聖書も全然わからないし・・・と言った自分の中に浮かんでくる疑問も、全部神さまが解決して下さるので、それも気にしなくて良いんです。羊飼いは羊の面倒を一日24時間見続けます、同じように神は「信じます」と言った人たちには必ず全ての面で問題を整え解決して下さいます。どうぞ今、この時、神からのプレゼント、イエス・キリストを受け取って下るように、と願っています!
  1. 2007/03/03(土) 11:06:58|
  2. Bible Study
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「イエス・キリスト」という名前について #2

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、
敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
(ルカ10章19節)
-----------------

その1に引き続き、今回もイエス・キリストの名前についてレポートします。イエスの名前には「天においても、地においても、いっさいの権威」が与えられている、またその権威が、イエスを主と信じた人にも与えられる、ということを学びました。それでは、それを実際にどのように用いたら良いのか、聖書の記述を見ながら考えて行きましょう。
※その2では、すでに信仰を持った、よりクリスチャン的な内容になってます。ご了承下さい。
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●名前の権威と、それを信じる信仰が奇跡を起こす
ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれてきた。・・・彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。・・・すると、ペテロは、「金銀は私にはない。私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり・・・歩き出した。
(使徒行伝3章1節~8節)
 
イエスの弟子であったペテロとヨハネが、生まれつき足の不自由な人を癒し、奇跡を起こした場面です。その1でもふれたように、彼らはイエスが言った通り、御名の権威が与えられていること知っていたので「私にあるものを上げよう」と言う言葉が出てきたのでしょう。やはりここでも、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と名によって命じています。名前の権威を与えられている人には、このように権威を用いる特権が与えられているんですね。

この記述の後には、なぜこのようなことが起こるのか、が詳細に説明されていますので、そちらも見てみましょう。

「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。・・・
そしてこのイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられている信仰が、この人を・・・完全なからだにしたのです。」
(使徒行伝3章12節~16節)

ペテロもヨハネもはっきり言っています、自分の力や信仰深さではない、イエスの御名の権威と、さらに権威を信じる信仰がこの人を強くした、と。御名にある権威の力を、それを信じる信仰が引き出した、「イエスによって与えられる信仰が、この人を完全なからだにした」のでした。
 さすがに、イエスの御名のすごさは、敵も十分知っていました
この出来事があったあと、彼らの活動を快く思わない大祭司やその一族が、ペテロとヨハネを尋問します。そこでの質問はこうでした。

「あなたがたは何の権威によって、まただれの名によってこんなことをしたのか。」
(使徒行伝4章7節)

その質問に、ペテロは聖霊に満たされて言った、と続きます。

「皆さんも、またイスラエルすべての人々も、よく知って下さい。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、・・・ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」
(同じく4章10節)

そこで、大祭司たちはどうしたかというと、「今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを厳しく戒め」ました(同じく4章17節)。ここからもわかるとおり、敵(注:この場合は大祭司ですが、彼らの頑なな心を促した背後の力、闇の力、神に敵対する力を指し、大祭司そのものではありません)はどのようにすれば、こういった奇跡を起こらせずにすむかをよく知っていたので、まず「この名によって語らないように」させたのです。

イエスの名によって語る時に、神の力が現れる・・・しかしそれは、"イエスの御名の権威"と"それを信じる信仰"のどちらがかけてもダメなのです。

●イエスの御名を使う時、同じ権威がそこに働く=私はイエスの代理人!
私たちがイエスの御名を使うとどのようになるでしょうか、イエスはこのように説明しています。

「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光を受けるためです。」
(ヨハネによる福音書 14:13)

と、はっきり、イエスご自身が「それをしましょう」と言っています。名によって求めると、イエスがそのために働いて下さるのです。さらに、このような言葉もあります。
・・・私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
(ヨハネによる手紙第一 4章17節b)

イエスの御名の権威を与えられた私たちは、なんとイエスと"同じような者"、と神の目には見なされます。しかし実際にはイエスを受け入れる前と後と、たいして違わないじゃない・・・と思うこともしばしばです、しかしそれは目に見える部分を指してはいません、与えられた聖霊によって私たちの霊が生まれ変わっているはずなのです、神の霊が私たちひとりひとりに与えられるとしたら、その人を指して「キリストと同じような者」と言っても間違いではないんですね。ですから、私たちがこの地で、イエスの名によって求めることは、そのままイエスが天の父に求めたことと同じ、という事になります。これは、本当にすごいことです。

ただし先程もあったように、御名を信じる信仰によって、神の力が発揮される場合とされない場合がある、というのも事実です。その1で出てきました、「天においても、地においても、いっさいの権威」があることを知らず、ただ教えられたから、といって、まるで刺し身に飾るのツマのように「イエスの御名によって」と付け加えて言っても効果はありません。だからといって、すぐに信じられるような目に見えるものでもありません。ここに信仰の難しさがあります。またやみくもにイエスの名によって求めれば与えられるか、と言ったらそれも違います。私のつたない信仰生活上で学びましたが、基本的に神の御心にかなう祈りだけが聞かれて行きます。自分の利益や満足だけを求める祈りは聞かれません。あしからず。

●信仰にも訓練が必要です
自分の頭で理解しようとしても、はっきり言って無理です。理解をはるかに越えたことですから、頭ではなく、聖霊によって生まれ変わった自分の霊に、このことを言って聞かせる事が必要なようです。「 信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ 10:17)とある通り、みことば=聖書の言葉を自分の口で言って聞かせ、そのことばをじっくりと思い巡らす=黙想すると、ことばが自分の霊にしっかりと根づいて、信仰が強まって行く、ということなのです。今回取り上げた聖書の言葉のひとつひとつを、一日に1つずつでもじっくりと味わって行けば、必ず「御名を信じる信仰」が芽生えてくるはずです。そして御名によって求めれば、なんでもそれをしてくださるのですから、「このことをどうぞ信じられるようにしてください」と祈り求めて行けば、必ずそのようになっていくと信じます!
  1. 2007/03/03(土) 11:02:14|
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「イエス・キリスト」という名前について #1

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、
敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
(ルカ10章19節)
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私たちクリスチャンは、普通祈った後には必ず"イエス・キリストの名前を通して"とか”イエスの名によって”祈ります、と締めくくります。私もクリスチャンになって間もない頃、人はイエスを通してしか、天の神と交わることができないためだ、と教えられました。なるほど・・・イエスの十字架の血潮によって私たちの罪の赦しが与えられたから、神の目にはイエスを通して義人となった、これからはイエスを通して神と直接交わることができる・・・そのことはクリスチャンになった当時でも理解することができました。しかし最近になって、この名前の持つ深い意味を知り、なんという力が私たちに与えられているのだろうか、と驚嘆しました。なので、今回はこの名前についてレポートをまとめたいと思います。(これは 村田雅春牧師・いのちの泉キリスト教会 のメッセージテープを参考にしています)
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●新しい契約として与えられた名前
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効に なるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。」
(ヘブル人への手紙 9:15 ~ 17 )

 まず「イエスの名前によって」というのは、いわばイエス・キリストの名前の効力を受け継いでいるから言える言葉です。今現代でも人の名前を使う、ということはありますよね。上司の認証サインが入った書類が効力を発揮したり、○○の知りあい、または親戚など、という事でその人を見る目が変わったり・・・それが偉い人であればあるほど、当の○○の部分の人がその場にいなくとも、なんらかの形で優遇されたり恩恵を受けることだってあります。反対にその人の承認なしに名前をみだりに使って不正を行った場合には、なんらかの責任をとる必要が出てくるでしょう、そのように名前には効力がある、というのは今でも一般的に起こっていることです。

上記に引用した聖書の言葉では、キリストは新しい契約のための仲介者であり、召された者=イエスを信じた者 が永遠の資産の約束を受けるようになるため、となっています。さらに遺言(=契約)は人が死んだ時に初めて有効になるのである、と書かれています。ということは、イエスが十字架で死ぬ以前にはこの効力はなかった、イエスが死んだ後(もちろん復活して今も生きておられるのですが)の今だから、この契約の効力がある、旧約聖書の時代には言えなかったのが、イエスの十字架以降の時代は「イエスの名によって」と言うことができる、ということなんです。今を生きている私たちには特別な契約が与えられているのだ、ということがわかります。

●旧約と新約・・・どちらも神がむすばれた契約です
旧約聖書の旧約という言葉は"古い契約"という事です、古い契約の時代には神から与えられた 613 もの律法が全て守られたら救われる、天の御国に帰ることができる、というものでした。しかしそれができるのはだれ一人としていないことを神は十分承知でした、それでイエス・キリストを介して誰でも救われる、という契約を与えて下さいました、これが"新しい契約"=新約という意味になるのですね。しかし守られないことを承知で、なぜ神は 613 もの律法を人に与えたのでしょうか、それは"人の善悪"ではなく、 "神の善悪"を人に知らせるためであったことが聖書に書かれています。結局、人の努力では神に近づくのは無理なんです。

●新しい契約は神の愛のそのものです。だから福音=GOOD NEWSなんです!
わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。 (ルカによる福音書 22:29 )

旧約の時代、どんなに偉大な人でも「イエスの名の権威」は与えられていませんでしたが、しかし今は与えられている、ということが分かりました。イエスご自身も、私たちに「王権を与えます」とおっしゃられました。ところで、この王権とは、いったいどんなものでしょうか?聖書の言葉を見てみましょう。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイによる福音書 28:18 ~ 20 )

ということで、「天においても、地においても、いっさいの権威」だ、とイエスはおっしゃいました。”天も地も、全てのものを従える権威”なのです。この世でイエス以上の権威は存在しない、それぐらい大きな権威です。私たちには想像のつかない大きな権威・・・であるがゆえに、私たちがこの権威の本当の大きさに気づかずに、ただ教えられたから、というだけで使っているのが現状なのではないでしょうか?実際に私はそうでした・・・

さらにイエスは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子として・・・父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け・・彼らを教えなさい」と言われました。これは"イエスの名前の権威"をあなたに与えたから、力をもう与えたから、だから行きなさい、と言ったんです。お金を渡さないで、子どもに買い物に行かせる親はいないでしょう、同じように、権威を持たせたから、神は「行きなさい」と言われたのですね。

神が「行きなさい」と言われる時は、誰にも必ず訪れると思います。私自身、今まで何度あったか分かりません、そしてそれは、ほとんどが自分の意志から出たことではなく、あるときは正反対の方向でもありました・・・しかし「行きなさい」の言葉に従ったことで、今の私があるのだ、と確信しています。「あの時、あの決断さえしなければ・・」という事は一度もありませんでした。神の権威をいただいて、そして向かう時に、必ず神が共にいて下さって、その権威ゆえに、困難に見える道も開かれていくんじゃないかな、そんなことを改めて考えさせられました。

ということで、今回は、イエスの名前の”権威”についてまとめました。次回では、それをどのように私たちが用いていくべきなのか、をまとめたいと思います。
  1. 2007/03/03(土) 11:00:35|
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洗礼:バプテスマって・・・?

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
キリストとともに葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって
死者の中からよみがえられたように、
私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、
キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
・・・・
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、
キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
(ローマ人への手紙6章4~8)
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クリスチャンになるには洗礼を受けないといけない、それってちょっと恐いな~・・・と思っている方多いんじゃないでしょうか?実は私も、クリスチャンになる前はそう思っていましたし、洗礼の意味もよく分かってなかったので、何かちょっと恐いような怪しいような、もう受けたが最後、後に引けなくなっちゃうんじゃないか、みたいなイメージがありました。・・・結局、洗礼は受けましたけれど、8年経ってやっと、その意味をちゃんと知ることができましたので(遅い!)HP上でみなさんとシェアさせていただきたいと思います。これはハーベストタイムの中川先生のメッセージの中にあった内容です。とても明快で、すごくすっきりしました。

まず「洗礼」とは何かというと、イエスを自分の救い主だと受け入れた人が受ける儀式のことで、全身を水にじゃぼんと浸けたり(お風呂だったり川だったり、方法はいろいろ、ちなみに私は川でした)、またあるところでは水を少し取って頭からちょろちょろとかける(滴礼)という方法もあります。意味は一緒です。私の今まで知っていた範囲で、また一般的な言い方をすると「水に浸かることで罪人である古い自分が死んで、水から上がったことで新しい自分に生まれ変わる、という事を体現するのが洗礼」と言えると思います。

~次からがメッセージで初めて知った内容です~
"バプテスマ"のもともとの言葉の意味は「あるものと一つになる」の意味で、内側も外側も、その回りにあるものでいっぱいになって、それと同一化してしまうときにバプテスマされる、と言うそうです。例えば、ある船が沈没してしまって、船の中も外も海の水でいっぱいになった、という時には「バプテスマされた」という表現を使うのだそうです。なので「キリストにつくバプテスマを受けた」というのはキリストと同一化する、「キリストと一つになった」という意味になるんですね。

また先程も触れたように、水に浸かることで死ぬことを意味します。実際に、牧師が洗礼者を水に浸けたまま、その人を2分でも水の中にしずめさせたらその人は死んでしまいますよね?実際はそんなことはしませんけれど・・・要は、水に浸ける=古い人のお葬式です、そして水から上がった時には、死から甦る、ということになります。わかりやすいですね!

まとめますと、キリストも一度、罪を背負って十字架で死に、神の栄光(神様の力の現れ)によって3日後に甦りました、今私には同じ体験はできないけれど、バプテスマを受けることによって、(象徴的に)キリストと同じ体験をしました、キリストと一つになりました!ということをあらわしているんですね。素晴らしい!

今になってやっと、洗礼とは、ただ形式上、受けなければならない儀式・・・というものではなく、そこには素晴らしい、深い意味があるのだ、ということに気がつきました。いや~、素晴らしいですね~!私にとっては8年前のことですけれど、振り返ってついつい嬉しくなってしまいました。
  1. 2007/03/03(土) 10:57:53|
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GOSPEL=GOD SPELL=神のことば

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずに
できたものは一つもない。
(ヨハネの福音書1章1節から3節)
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以前、Hush Harbor・塩谷達也さんという方が「ゴスペルの本」を出版するにあたって、ゴスペルを歌っている人を対象にゴスペルについてアンケートをとった、ということで、ご好意によってその内容を一部シェアして下さいました。他の国ではあり得ないのでしょうが、日本は特別にゴスペルがクリスチャンにもノンクリスチャンにも受け入れられ、どちらかと言えば、ノンクリスチャンの需要の方が多いぐらいの現状です。日本人口の0.25%(教会の礼拝に参加している人)とも言われるクリスチャンより多いのは、当然と言えば当然です。

その内容を見させていただき、あらためて驚いたのが、ほとんどの人が「癒される、解放されてると思う、素直になれた、友達以上の仲間に出会えた、悩んだ事もあったけど今はゴスペルがない生活なんて考えられない」など、肉体的にも精神的にもプラスの効果が実際にあって、ゴスペルを歌う事によって他では得られない何か特別な経験を、個々それぞれが、していると言う事実です。さらにほとんどの人が歌詞を意識して歌っていると言ってます。不思議な事に「ゴスペルを歌うのに信仰は必要ない」と答えている人がほとんど、理由を「それぞれが神を感じて、神を尊敬して歌っていればそれが賛美でいいのではないか?」という答えです。しかし端から見ると、よっぽどみんな素晴らしいクリスチャンのようです。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル人への手紙11:1)と聖書にありますが、まさに目に見えない神に対して尊敬し、歌詞を通して自分の気持ち(それは望みや願いでしょう)を神に対して訴えているのであれば、聖書によれば、それは立派な信仰の姿であると、率直に思いました。それはそれは、すごい力だと思います。

また、昨日聖書を読んでいる中で、ふと気付いた事がありました。今個人的に黙示録(聖書の一番最後の章で、これから起こる神の啓示が記されている章です)を初めて学んでいるのですが、その中で自分でもかなり衝撃を受けた事が「誰でもみな、必ず神の裁きの座につかなければならない」という事でした。それぞれの行いによって裁かれ、その裁きを逃れるものは誰一人いない、と。まさに裁判で被告側に立たされる時が来るんです、弁護人はいません。私は思わず「今、日本中でゴスペルを歌っている人、全てが罪赦されますように」と祈りました。イエス様の贖いによって赦された人しか無罪となれないのです。

その中で、神様からの語りかけなのかなんなのか、ふと「GOSPEL=GOD SPEL=神のことば」である事が思い浮かび、神のことばとは聖書によれば「イエス様そのもの」であることにつながりました。それが冒頭の聖書の箇所です。GOSPELを歌って、その力をほとんどの人が信じているわけです。GOSPELを信じている人は、そのままイエスを信じている事と同じではないか、そう思ったんです。そうしたら胸の内側に熱いものが込み上げてきました。本当は、心ではみんなイエス様を信じているのに、それに気がついていない、自分の理性が先に立ってしまって見えていないだけじゃないか、そう思いました。

聖書には「もしあなたの口でイエスを主を告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と記されています。ここには「みんなに告白しなさい」とか「牧師に告白しなさい」とは書かれてありません。ただ「あなたの口で告白」すれば完了です、無罪です。なんとシンプルなんでしょう。

だから誰でも、もっと気軽に「イエス様を信じている」と告白していいんじゃないか、って思います。実際GOSPELの力が歌っている個々それぞれに及んでいるのなら、すでに神の力が及んでいる事はもう否定のしようがないわけで、GOSPEL=イエス様そのものをすでに賛美しているわけですから。・・・そう簡単に話は進まないよ、と思うかも知れません。私の場合も信じたくても信じられず、苦しんだ時期もありました。誰にも相談できず、その時はただ「どうか信じさせて下さい」と祈った記憶があります。その祈りが聞かれて、不思議な形で導かれて、告白するにまで至りました。

結局は、神様と個人とのプライベートな関係の中で成されるものです。ですからもっと率直に、素直に、神と自分との関係を考えて、思いのままをイエス様に訴えてみてはいかがでしょうか。教会は?とか、洗礼は?という諸々の問題は、全部神様が用意して下さいます、少なくとも私にはそうでした。まずは自分と神との関係を修復する事が先決です。
  1. 2007/03/03(土) 10:55:25|
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「赦す」って難しい、でもすごいことなんだ

「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、
返してもらう事を考えずに貸しなさい。
そうすればあなたがたの受ける報いはすばらしく、
あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。
なぜなら、いと高き方は恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば自分も赦されます」
(ルカ伝6章35ー37節)
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少々長い聖書の言葉を引用しました。しかし、読めば読むほど、なんだか感慨深い言葉だと思いませんか?これはイエス様が、大勢の弟子や民衆を前に教えられた中の一つです。この時、民衆は誰もがイエス様に癒していただきたい一心で、または自分達を導いてくれる人を求めて、懸命についてきた人たちばかり、子羊のようにさ迷っていた人たちが、「この人なら助けてくれる!」という期待をもって、ついてきた人たちなのでしょう。そのような群衆を前に、イエス様はこの教えを説きました。

私は悪い事をしていない、相手の方が悪いのに、どうして相手が謝ってくる前に私のほうから許さなければ行けないの?って思う事ありますよね。しかし、ここで答えは明確に語られています。「自分が報いを受けるため、自分が赦されるため」、言葉を変えれば、「自分が祝福されるため」なんですね。全くの逆説的な教えです。しかしこれが神の摂理です。

人は誰でも不当な事をされれば怒りもしますし、いわれのない侮辱を受けたのなら、どうやって仕返しをしようか、と考えても仕方がないです。ある人はお母さんのおなかの中にいる時に拒絶されて、それが傷になって、知らない間にその傷に縛られている人も少なくない、と聞きます。ある人は小さな頃にいじめに遭った、とか、両親に愛されなかった、などなど、深刻な問題がたくさんあります。そんな問題のどこに私に非があるの?って思います。またそういった問題は、大抵心の奥底にしまっておいて、蓋をして、思い出したくない過去として記憶から消してしまいたいです。しかしその傷は解決せず、記憶もずっと残り続けます。どうやったって私たちにはそこから離れる力はありません。

ここに解決の道を与えてくれるのが「悔い改め」または「赦し」です。こんな考えは私たちからは絶対に出てきませんよね。難しいですもん。しかし私もクリスチャンになって早8年弱、今になってやっとこう思えるようになってきました。「この世界にはパーフェクトな人は一人も存在しない。みんな誰でも傷を受け、また傷に縛られて苦しんでいる」ということです。

敵を受け入れ、敵をもあわれむ神の愛を思う時に、「私にも悪い所があった」って思えたら、(言葉は悪いですが)しめたもんです。苦しみの道から祝福の道へ方向転換できる大きなきっかけになります。「悔い改めの中で、あまりにも自分の不甲斐なさのゆえに{神様、ごめんなさい}と苦しんで流す涙は、どんな祈りよりも本当にその人の心を癒すものだ」と、ある先生がおっしゃっていました。美しいですよね!こんな自分も神様に赦され、愛されている、ってわかったときに、人は初めて人を赦せるようになるのかなーって思います。大切なのは「赦す」という決断をする、事だそうです。難しいですが、大変でも神の言葉に従った時に、神様がそれを成し遂げて下さるんですね。そして晴れて神様からの大きな報いをいただく事ができるのです。ハレルヤ。

さ迷っている群衆に、こんなにハイレベルな教えを説いたイエス様の思い、きっと、当時の一般の人達=今の私たちにとって、とっても大切な事だからお伝えになったのでしょう。それはまぎれもなく、私たちがみんな祝福されて欲しい、神の子どもになって欲しい、そのような神の願いからだと思います。
  1. 2007/03/03(土) 10:53:38|
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善悪を知る知識の実

神である主は、人に命じて仰せられた
「あなたは園のどの木からでも
思いのまま食べてよい。
しかし善悪の知識の木からは
取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、
あなたは必ず死ぬ。
(創世記3章17節)
------------

上記の言葉は、聖書の中でもあまりにも有名なエピソードの発端となる言葉ですね。人として最初に作られたアダムとエバがこの命令を守らず、破ったためにエデンの園から追放される事となってしまった、ここから人に罪が入り、神との縁が切れてしまった。こんなに簡単でシンプルな、まるで大人が子どもに教えるような命令ですが、このたった一つの命令を守れなかったために、人はエデンの園(=天国)の住人、神の家族としての立場を失いました。

この箇所は、クリスチャンになってから何度も何度も聞いたはずなのに、最近になってまたさらに気付かされた事があって、目からウロコの経験をしました。(それは「Bridges for peace」の理事、スティーブンス栄子先生のセミナーテープからです。)

アダムとエバが食べた実、それは「善悪の知識」の木の実であったことです。人はこの実を食べたことで、善悪の知識を得ました。これは一見良いことのように思いますが、「神の善悪」ではなく「人の善悪」を持つようになった、という事を意味します。もっと言えば、人それぞれの善悪であって、その基準は十人いれば十人とも微妙に違う、自分は良いと思えることも、人が見ると間違っている、という、なんとも不安定な善悪です。自分の善悪を基準に判断する、それはイコール「自分が神になっている」ことになるんですね。いや_、気がつきませんでした。

考えてみると、全てのいざこざや争いの発端って、ここにあるんじゃないでしょうか。家庭不和、離婚、戦争、ちょっとした口げんかだって結局、自分は正しくて相手が間違っている、っていう自分の善悪で判断して、それにそぐわないから、って事がきっかけですよね。私はクリスチャンになってからも、これと同じことをどれだけ繰り返して来たか分かりません。人ばかりではなく、自分自身さえも裁いてきました。それはどこかで自分の理想像を勝手に描き、それにそぐわない自分を恨む、って事で、全くの自分の善悪が中心となった思考回路です。いやですね、ほんっと。

だから「人の善悪」から「神の善悪」に切り替えれば、こんな間違った争い?をしなくて済むんですよね。神の善悪でものごとを見ていくと、観点が変わります。それはアダムとエバからずっと、私たち人を愛して愛してやまない、神様の「愛」の観点になります。もしアダムもエバも、すぐに「ごめんなさい、私が悪かったんです」ってあやまったのなら、絶対に神様は許して下さって、またエデンの園に戻れたんじゃないでしょうか。残念なことにこのお二人、聖書の中にはただの一度も「悔い改めた」とは書かれていません。ここに人の本質を見るような気がします・・・。

最後にもう一つ。私たちはだいたい戦争や悲劇があると、全てを神のせいにしがちですが、決してそうではなく、この「人の善悪」が発端となっていることが多いと思います。ヒトラーだってクリスチャンだったと思われがちですが、本当に神の御心を願ってしたことに思えるでしょうか?当時キリスト教国とされているドイツでは教会が"社交場"であって、政治家を始め権力者は(クリスチャンでなくても)そこに集っていたそうです。その中で反ユダヤ主義が唱えられ、あのような大きな悲劇を招いてしまったのです。しかも全て「イエスの名」によって行われました・・・。なんと人の善悪とは恐ろしいものでしょうか。時代は移り変わっても、永遠に変わらない聖書の言葉を正しく読んでいけば、きっと「神の善悪」で判断できるようになる、そう信じます。
  1. 2007/03/03(土) 10:52:08|
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Author:AKO
Gospel Choirを指導して、早いもので丸12年が経ちました。まだまだ成長の足らない私ですが、精一杯みなさんと一緒に歌って行きたいと思います。日本のGospel Choir、がんばろう~~!

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